2007年 02月 16日
「上の階から来たんですけどね」
男は話を聞いてもらうのが申し訳ないといった口調で云った。
「どこから来なすったって?」
怒ったように大声で掃除夫が問い返す。
近くの教室がカラテの授業中(猿のような奇声がとびかっている)なうえ、彼は耳が遠いのだ。
「ええと、四十六か七、あるいは六十四か七十四くらい、ここより上の階です」
気弱な男は、恐怖で真っ青になりながらそうつづけた。
掃除夫はものめずらしそうにじろじろと顔を覗き込んだ。「お兄さん、数がかぞえられんのかい」
「ちょっと考え事をしてたんです」あわてて言い訳する男。「階段ばかりで退屈だったもんだから。それでうっかり混乱してしまって」
「ふん」おがくずをちりとりに蹴りこみながら老人は鼻を鳴らした。「それで?」
一瞬ぽかんと口をあけた男は、すぐに用件を思い出した顔をしてこう云った。
「あのですね、保健室がこのへんにあるらしいと話に聞いたんですが」
掃除夫がちょっと顎を引き、あらためて男を品定めするように眺めた。糊の効いたシャツの脇が大きく破れて、そこから真っ赤な血がぽたぽた床に垂れている。それを見ると老人の表情は暗くなった。
「今日は水拭きしない曜日なんだがなあ」声は雨雲からの最初のひとつぶのように聞こえた。「水を無駄遣いする奴は仕事ができない、って評判が立つのを知らんのだろうね」
視線に気づいた男は、ひどく恐縮して靴の裏で床の血だまりを拭き取ろうとする。すると血だまりはかえって大きくひろがってしまい、老人はますます暗い表情になった。
「保健室はまだずっと下だよ」そして男の足からぬるついた靴をひったくる。「悪いがこれは脱いでいけ。判子みたいにぺたぺた押していかれたんじゃたまらん」
「すいませんすいません」男は平謝りしながら靴を胸に抱えると、裸足でいちばん手近な薄暗い階段にとびこんでいった。
男が去ってしばらくすると、長い真っ黒な髪で顔のほとんど見えない女がやってきて小声で老人に話しかけた。
「わき腹から血を流してる男が、さっきここに来ませんでした?」
「保健室をさがしてたよ。ちょうどそんなナイフで刺されたみたいな怪我しとってな」掃除夫は女の華奢な手元をじろじろ見ながら即答した。「なんであんなつまらん男に執着するのか、女に会ったらぜひ訊いてみたいもんだ」
刺された男がたどり着けないでいる保健室のベッドで、仮病の私はずっと夢を見ている。
億万長者になった夢だが、そんな生活がうまく想像できないためかなり抽象的に処理されており、私は金色の馬に乗って豪邸の中を走り回っていた。
ときどき馬が勢い余って召使を蹴とばすが、どんな痛い目にあっても大金をわたすと召使たちの機嫌は直った。
進んで蹴られようとする召使があとをたたないのに閉口する。
おかげで屋敷の中には花園のようにいつも笑顔が絶えなかった。
打ち所が悪くて死んでしまうときにもうっかり笑顔のままでいたりするのだ。
男は話を聞いてもらうのが申し訳ないといった口調で云った。
「どこから来なすったって?」
怒ったように大声で掃除夫が問い返す。
近くの教室がカラテの授業中(猿のような奇声がとびかっている)なうえ、彼は耳が遠いのだ。
「ええと、四十六か七、あるいは六十四か七十四くらい、ここより上の階です」
気弱な男は、恐怖で真っ青になりながらそうつづけた。
掃除夫はものめずらしそうにじろじろと顔を覗き込んだ。「お兄さん、数がかぞえられんのかい」
「ちょっと考え事をしてたんです」あわてて言い訳する男。「階段ばかりで退屈だったもんだから。それでうっかり混乱してしまって」
「ふん」おがくずをちりとりに蹴りこみながら老人は鼻を鳴らした。「それで?」
一瞬ぽかんと口をあけた男は、すぐに用件を思い出した顔をしてこう云った。
「あのですね、保健室がこのへんにあるらしいと話に聞いたんですが」
掃除夫がちょっと顎を引き、あらためて男を品定めするように眺めた。糊の効いたシャツの脇が大きく破れて、そこから真っ赤な血がぽたぽた床に垂れている。それを見ると老人の表情は暗くなった。
「今日は水拭きしない曜日なんだがなあ」声は雨雲からの最初のひとつぶのように聞こえた。「水を無駄遣いする奴は仕事ができない、って評判が立つのを知らんのだろうね」
視線に気づいた男は、ひどく恐縮して靴の裏で床の血だまりを拭き取ろうとする。すると血だまりはかえって大きくひろがってしまい、老人はますます暗い表情になった。
「保健室はまだずっと下だよ」そして男の足からぬるついた靴をひったくる。「悪いがこれは脱いでいけ。判子みたいにぺたぺた押していかれたんじゃたまらん」
「すいませんすいません」男は平謝りしながら靴を胸に抱えると、裸足でいちばん手近な薄暗い階段にとびこんでいった。
男が去ってしばらくすると、長い真っ黒な髪で顔のほとんど見えない女がやってきて小声で老人に話しかけた。
「わき腹から血を流してる男が、さっきここに来ませんでした?」
「保健室をさがしてたよ。ちょうどそんなナイフで刺されたみたいな怪我しとってな」掃除夫は女の華奢な手元をじろじろ見ながら即答した。「なんであんなつまらん男に執着するのか、女に会ったらぜひ訊いてみたいもんだ」
刺された男がたどり着けないでいる保健室のベッドで、仮病の私はずっと夢を見ている。
億万長者になった夢だが、そんな生活がうまく想像できないためかなり抽象的に処理されており、私は金色の馬に乗って豪邸の中を走り回っていた。
ときどき馬が勢い余って召使を蹴とばすが、どんな痛い目にあっても大金をわたすと召使たちの機嫌は直った。
進んで蹴られようとする召使があとをたたないのに閉口する。
おかげで屋敷の中には花園のようにいつも笑顔が絶えなかった。
打ち所が悪くて死んでしまうときにもうっかり笑顔のままでいたりするのだ。

